[ERMによるUX評価]
ERMというのはExperience Recollection Methodの略で、経験想起法といいます。つまり、評価を行う時点で、それまでの過去の経験を思い出しながら記録する、というものです。したがって現在のUXの評価ではなく、過去のUXを記憶に頼って思い出す評価です。認知心理学を知っている方ならご存じでしょうが、記憶というのはまず忘れてしまいやすい、そしてその内容が変容してしまいやすい、そのような欠点を持っています。ですから、ERMによって得た結果は正確に過去の経験を再現しているとは考えない方がいいでしょう。忘れてしまわれた経験もあるでしょうし、経験したときにはとても嬉しかったのに、そのことを忘れて低い評価をつけてしまうこともあるでしょう。したがって、ERMは、評価を行う時点から過去を振り返ったとき、自分の経験の歴史がどのようになっているかという「現時点」での考え方を把握する手法だと考えるべきでしょう。
ERMの記録用紙を図として示します。ERMの調査は、ひとつの対象について20-30人分くらい集めれば十分といえるでしょう。100人も200人も集めてしまうと集計が大変です。もちろん、その気になれば集計できますし、信頼性の高いデータが集まるでしょうが。また、できるだけ違った属性を持った人からの回答を集めるようにしましょう。女性も使うのに男性ばかりのデータであるとか、高齢者も使うのに若い人ばかりのデータである、というように偏ってはいけません。特に、その製品やシステム、サービスを利用すると思われているターゲットユーザを中心にしてサンプリングしましょう。
行の方向には、期待感から始まって現在、そして近未来の予測までが、大まかな時系列で分割してあります。以前はこれを年ごとに書いてもらっていたのですが、人間の記憶がそこまで正確ではないと考えて、このように大括りにしたわけです。
列の方向にはエピソードの記入欄と評価の記入欄があります。エピソードというのは、その製品やシステム、サービスとのインタラクション、つまりそれを利用していて生じた出来事を思い出した内容です。評価は満足感について、それを-10から+10までの21段階で評価してもらいます。
この例の場合は、Webを利用した社内の旅費精算システムに関する記録です。いろいろなエピソードが書かれており、評価、このインフォーマントの方の場合はマイナス評価が多くなっていますが、それが書かれています。
このERMの評価データをどのように利用すればいいでしょう。まず、エピソードの内容を、評価点を付けたまま分類します。そして、これはインタフェースのユーザビリティの問題、これは性能の問題、これは一般的なコメント、といった具合に整理します。もう少し細かく分類してもいいでしょう。そして、マイナスの点数がついたところ、特に大きな得点がついたところ、多くの人によって指摘されたところは重視しましょう。そうやって得た結果を企画や設計の関係者にフィードバックして対応策を協議するようにつなげるのです。できれば、分類や整理は、そうした関係者と一緒にやるのがいいでしょう。
また、注意すべき点は、良い評価が得られた点です。これらについては単に喜ぶのではなく、インタフェースやシステムの機能などを現状のまま維持することを基本とすべきです。Webサイトのインタフェースを変更する際には注意が必要だからです。良かれと思って改善したつもりが、かえってUXを損ねてしまうということが往々にして発生するからです。
[UXDという誤解]
さて、UXDという言葉を良く耳にします。UXが設計サイドの望むようにデザインできるなら、そんなに嬉しいことはないでしょう。しかし、この連載で書かれたことを思い出してください。UXは個人的なもので個人差や利用状況による差があること、設計時品質は利用時品質を保証しないこと、ユーザビリティはUXに影響する一要因に過ぎないこと、などです。つまり、UXを良くしようとデザイン活動をすることは可能ですが、UXを設計者の意図どおりにデザインすることはできない、ということです。UXがデザインできると考えるのは虚妄です。
そのため、UXDという言い方がでてきたとき、Design for UXというべきだ、と主張した人がアメリカにいました。UXを良くしようとするためのデザイン、という意味です。筆者は、この謙虚なニュアンスが気に入っていたのですが、全く広まることなく消えてしまいました。残念なことです。
でも、あらためてここに主張しましょう。UX Designではないのだ、Design for UXなのだ、と。
[デザインと設計]
しかもUXDにはもう一つの誤解が潜んでいます。それはdesignという英語をデザインと訳すことによって生まれたものです。ご存じのように、英語のdesignにはデザインという意味と設計という意味があります。後者の方が広い概念で、デザインという意味合いもその中に含まれていると言っていいでしょう。
しかし、日本でも欧米でもアジア諸国でも、いわゆるデザイナーやマーケティング分野の人たちが活気づいて、UXとかUXDという言葉を盛んに使うようになりました。元気になることはそれでいいのですが、筆者はUXやUXDという言葉を使う人たちの無定見な態度には驚かされました。概念を考えたり、自分の頭で考えたりしようとする習慣のない人が結構たくさんいるのだ、ということにがっかりしました。
その結果、UXDはデザイナーが牽引すべき仕事である、という誤解が蔓延してしまったのです。そうではありません。UXを良くするためにはデザイナーだけでなく、彼らを含めた設計関係者すべてが努力しなければならないのです。Design for UXという言葉の意味をもう一度かみしめる必要があるのです。
もちろん、インタフェースデザインがUXに影響する部分は大きいし、ユーザビリティがUXに影響する度合いも大きなものです。しかし、それだけではないのです。UXはデザイナーを含めた企画や設計の関係者すべて、さらには販売やアフターケアを担当する人たちすべてに関わる概念なのです。価格設定もそうです。信頼性向上もそうです。安全性だってそうです。Webサイトではなく製品での話ですが、スマートフォンが発火した事件がありましたね。そうした安全性はUXに影響しなかったといえるでしょうか。
[これからのUXへのアプローチ]
6回にわたってUXについての説明をしてきましたが、まず、世間に流布しているUXの考え方とはかなり違った話だったな、というのが正直な感想だと思います。しかし、論理的におかしなところがあったでしょうか。筆者は、これまで、ユーザビリティ活動から出発し、UXにも脚をつっこみ、それからより広い視点でものごとを見るように努めてきました。
そうした個人的な歴史から見ると、どちらかというと日米のUX関係者はマーケティングに近いスタンスの人が多く、欧州の関係者には概念を考える人が多いように思います。いいかえれば、UXの研究は欧州が中心になっているということです。UXはexperience、つまり経験です。経験という概念には歴史的な議論の蓄積があります。そうしたことも関係あるように思います。
ぜひ、読者の皆さんには、これを一つの切掛けとして、UXについて、実践活動に邁進するだけでなく、ちょっとコーヒーでも飲みながらじっくり考えてみる時間を取っていただきたいと思っています。その時に、このコラムでの話を思い出してください。それでは。